土日に、東京に行ってきた。
見たい展覧会がたくさんあったのだが、結局2日間で5つの展覧会をはしご…少し疲れたが色々刺激になった。
1日目、始めに行ってきたのは東京都現代美術館で行われている「池田亮司 +/-[the infinite between 0 and 1] 」。池田亮司氏のことはよく知らなかったのだが、広告を見てとても面白そうだったので少し足をのばした。
池田氏は電子音楽家 / アーティスト。今回の展覧会では人間の知覚する世界をサイン波やピクセルといった「データ」として捉え直した大規模なインスタレーションを展示している。
展示作品全体を通じて感じたのは、人間の手によって「データ」にまで分解された音や光が、人の手を離れてしまった感覚だ。何か「彼ら」自身が意思を持って動き、人間の知覚を介して人を侵略するような錯覚に捕われてしまった。
もう一つ、「matrix [5ch version] 」という超指向性スピーカ5台を使用した作品では、サイン波による音の純粋なせめぎ合いも感動したが、それよりも受信者としての自分の「慣れ」を自覚した時に恐ろしくなってしまった。結局人間は「自分」という最もパーソナルなデバイスをもってしか世界を知覚できない。この事実を、細分化された音や光に気付かされた様な感覚だった。
また、東京都現代美術館では、偶々だったのだが「トーキョーワンダーウォール2009」という東京都が主催する文化事業の入選者による作品展示を行っており、自分の通う大学の、しかも自分の知り合いの作品がそこにあった。個人的な感情も入っているのだろうが、自分の大学の人の作品は入選作の中でもすごく良かったと感じた。不思議だ。
mrtさん、おめでとうございました。
この日はもう一つ、国立新美術館で行われている「野村仁 変化する相―時・場・身体」という展覧会も行ってきた。野村仁氏は、自分の通う大学の教授で今回活動40年の大回顧展としての展覧会だ。
不勉強でよく知らなかったのだが、ドライアイスの時間による変化を写真に収めた作品は中学のときの図工の教科書に載っていたのを思い出した。
膨大な時間とモノとの関係性を示唆する作品群の中で、改めてモノは、時の流れの中でしか存在できないという当たり前の事実を強く思い知らされた。それに加えて、時間がモノを美しく…と言うのか、「モノ」としてあらしめてくれるということも感じた。
自分は、道具としてのモノを作りたいと思っている。その中で時間によって変化し、朽ちていくことに対する不満感というか、嫌だなぁと思うこともある。でもそれは間違いだ。そう感じた。
続く
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