大学生がイタリアの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会」に落書きをしていたことが話題になっている。わざわざ名前も学校名も書くなんて,浅はかだし同じ大学生として恥ずかしく思う。思慮が足りない。
だがしかし、とかく日本の論調は大学生非難に偏りがちなのだが(もちろん彼らが悪いのは当たり前だが)、別の側面も考えられる。京都の大学生は「周りの壁に落書きがあったので、いいと思った」と語っているように、どうやら世界遺産とはいえそこは元から落書きがたくさんあったようだ。
いわゆる「割れ窓理論」というやつである。割れた窓を放置してある地域は治安が悪くなる可能性が高い、というものだ。
教会は、なぜ落書きを消そうとしないのだろうか。貴重な文化財だから修復も慎重なのだろうか。それとも消しても追いつかないぐらい書かれるのか。いずれにせよ、「落書きしてもいいかな?」という雰囲気を作ってしまったことは教会側の落ち度であるように思う。
とはいえ、落書きの管理(?…つまり消すこと)は非常に大変な苦労があると思う。自分が悪い訳でも無し、なのに消すのは大変…。費用もバカにならない。
京都に住んでいると非常に悲しくなるのは落書きである。タチの悪いことに土壁に彫り込んだり、植わっている竹を傷つけてまで大量の落書きがしてある。ほとんどの観光地がそうだ。イタリアと同じく、日本語だけでなく他言語の落書きも目につく。
この問題の解決は大変だが,キーワードはやはり「地域の協力」だと思う。何事もそうだが、「雰囲気」というのは非常に大きな力を持つ。地域全体で落書きさせない「雰囲気」を作り出すこと。多数の人間が関わるだけに地域と言うカタマリは難しいものだが,自分の町がキレイになってイヤな人などいるだろうか。「自分がした訳じゃないし…」という思いを捨てること。
とかく自戒の念を抱くニュースである。
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