河原町の元・立誠小学校で昨日まで行われていた、京都市立芸術大学、京都嵯峨芸術短期大学、京都造形大学、京都精華大学合同の「京都同時代学生陶芸展」を見てきた。
予備知識何にもなしで行ったが、色々な形態の陶芸による作品が数あって楽しかった。
たくさんの作品がある中で、個々の感想とは別に思うことがあったので、それを書く。
また若者の大言ですが。
作品にいわゆる「うつわ」が少なくて、彫刻的な作品がたくさんあったので特に感じたのだが、同じ立体造形物でも「これ、土で作る意味あるん?」と思うものと「ああ、土でこの感覚を出したかったんやなぁ〜」と思うものが自分の中で1つ「ええもの」と「そうでないもの」を分けているみたいだ。
思えば、自分にはそういう価値判断基準があるみたいだ。油画なら、何故その題材を油絵の具で描くことに意味があるのか、とか。染色ならその図案は染めることに本当に意味があるの? とか。CGで水彩調に描く意味は? とか。で、上の例だってちゃんと意図があれば納得する。
この考え方はプロダクトを考える時にも働いている。そういえば先日コメントをいただいた「ファッション」なんかに関してもそうだ。素材は割と合理的なものが多いと思えるが、例えば装飾面で「何でそんな尖って高いヒールやねん!」とか、「何で薄くてヒラヒラやねん、透けてまうやろ」とか。流通でいえば、先日も書いたように同じような服を百貨店のような場所で大量に売っているのに納得できないし(今これを書きながら「それって家電量販店も同じちゃうん?」と思ったが、例えば掃除機なら掃除機で各メーカーごとに独自に機能を開発して「ウリ」にしているが、服なら、自分の中では例えば「チュニック」なら装飾や色がどうであれ人の身体に対する機能が同じなので「1つのウリが同じモノ」と認識しているようだ)。
何かもの作りに対して「理由」が絶対的に必要なようだ。しかも「かわいいからいいじゃん」みたいな個人的感覚はなしで、目に見えてみんなにわかるものじゃないとダメみたいだ。土ならこの土のこういう良さを出すためにこうしました。おおー(みなさんの納得)。逆でもいい。自分の意図はこうだから、コレは土でないといけない。おおー(みなさんの納得)。
自分で書いててもうっとうしいな…。
実際、ろくに、というかデザイナーとしては何一つ仕事していないのに、自分の頭の中で考えるデザインに対して何かと「理由」を付けて「それじゃダメだ」と手を動かす前から打ち消す自分がいる…。それじゃダメだと思うけれど、納得できない。単純に「いや、そんなこと言う前にやれやバカ」って話なのだが…。
街に出ていろいろなモノをみる度にモノ作りが怖くなっている自分がいるなぁ。
自分が作る意味が見つけられない。もちろんプロダクトデザインに個人の名前はいらないと思うが、作る側としての意義がわからなくなってる。いや「そんなこと言う前にやれやバカ」っていうのはわかっているんだけど…。わかってるんやけど…。
深夜に書くとダメだ。ごめんなさい。
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